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誰もが光秀を、天下人とは認めなかったのである。
なかでも、盟友・細川が光秀の書簡を黙殺することは、深く悲嘆させた。
そのために信長を斃したという、当初は矜恃となりえた事実が、次第に家臣たちに罪悪感を覚えさせた。
明智軍の暗さは、そこに起因していた。
光秀自身、他の大名の支持を得られるとは考えていなかったのだが、細川氏だけは、という想いはあった。
(しかし、私は滅びるのである。だから、彼らの判断は正しい)
元々、書簡を送ったことも光秀が望んだことではなく、重臣の進言を聞き入れただけであったのだ。
暗い表情のまま明智軍は決戦が行われるであろう、山崎に着いた。
一方、秀吉のほうは6月11日に丹羽秀長・織田信孝など、四国征伐の準備に取り掛かってた軍と合流し、緻密に作戦を練った。
「決戦は山崎になろう」
と、軍議で秀吉は述べる。
「中川、官兵衛、丹羽殿は天王山に陣取り、高山隊は山崎の集落に構えよ」
と、武将に命令しつつ、続ける。
「わしは天王山の山裾の宝積寺に構える」
と、力強く発した。
その語気の強さ分、周囲の者は信頼を厚くした。
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