序章

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   それは暑い暑い夏の盛りを迎えた夜のことでございました。隠す雲のない空に浮かぶ月は憂うことを知らず、煩くさえ感じられます。  否、それは月のせいでも数多ある星のせいでもなく、ただただ屋敷を取り巻く気配がそう感じさせていたのやもしれません。 「何と言うことだ」  そう嘆きうなだれる御館様がおいたわしくて、女達だけでなくご家来衆も袖を濡らし目を伏せておられました。本来であらば天上にも昇る気持ちを味わっていたことを思うと、更に嘆かわしいことにございます。  奥の部屋からは臨月を迎えたであろう奥方様の苦しげな叫びが聴こえ、皆のすすり泣きを一層誘います。一人戦う奥方様が哀れで切のうて。  そうしてその時はやってきたのでございます。可愛らしい赤子の声も、その時ばかりは責め立てる阿修羅の怒号のごとく響き渡って聴こえたと……今でも皆は口を揃えるものです。  これもまた人の後ろめたさを映す鏡だったのでございましょう。 「お生まれあそばしたのは、元気な姫君にございます」  嗚呼、こんなにも沈んだ産婆の顔を見たことがございましょうか。  その声を耳にした御館様は、遂に崩れるように涙をお流しになられました。  生まれてすぐに殺される運命にある姫君を思って一粒。  死にも等しい別れを強いられる奥方を思って一粒。  己の所行を嘆いて一粒。  そうしてそれを拭いもなさらず、御館様はゆっくりとお立ちになります。  するりと鋼の擦る音が響き、冴え冴えとする刀の白銀が鞘から現れたのには流石に堪え難く、私も後にはただ袖の色を見るだけにございました。  
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