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「楽しいか、それ」
夏を殺す季節。
曇りの夕方。
人気(ひとけ)の無いビルの屋上。
唐突に、俺にそう話し掛けて来た、男。
細身の青年、とでも言っておこうか。
クシャクシャな緩(ゆる)い黒の癖毛と焦げ茶の瞳。よれた黒いシャツ、色褪せたデニムを身に着けている。
そして黒いスニーカーを左足『だけ』に履いていた。右足は裸足。やけに白い足だった。
「普通だよ。楽しいと虚(むな)しいの真ん中。お前は何さ?」
俺は男を見ながら、封筒から一枚の紙幣を摘まみ出し、放す。
俺から自由になった諭吉は、柵の間をすり抜け、いったん屋上を飛び降り、風に舞い上げられ、ビルの上を二~三度踊ってから、街に吸い込まれていった。
「俺は…なんだろうな。神の使いかな。パシリだな」
男は俺の隣に来て柵に寄りかかり、街を見下ろした。
「素直に『天使だ』って言えよ」
俺は諭吉をまた一枚摘まみ出し、放す。
落ちる。
舞う。
落ちる。
どこかに消える。
サヨナラ。
これで今日は二十七人の諭吉と『サヨナラ』をした。あと四百人近くの諭吉が、手の中の封筒に待機している。
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