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死の間際には走馬灯というものが見えるらしい。自ら命を手放そうとするときは、自分の人生を振り返るらしい。
死人に口なしという言葉通り、実際に走馬灯を見たのかどうかなんて確認出来ない。だから、それは迷信のようなものだと思っていた。
だが、十徳ナイフを手首に押し当てると、たくさんの思い出がその邪魔をする。
辛いことも楽しいことも、その全てが記憶の奥の方から溢れ出し、涙腺から流れ出した。
やがて頬を伝う後悔が乾くと、妙に心がすっきりした。喉の奥につかえていたものも、流れだしたのだろうか。
「じゃあな」
相棒からの返事はもちろん無い。ごめんな。俺を見つけた誰かが、代わりにお前を磨いてくれることを祈るよ。
ナイフに力を込めると、先ほどとは違いそれはすっと皮膚を裂いた。刃の下から、耐えきれなくなった赤が溢れ出す。それは粒のように膨れると、やがてゆっくりと手の平を伝い流れ落ちた。
鋭い痛覚が走る。しかし、それが歯止めとはならない。死への覚悟は痛覚を麻痺させることは無かったが、恐怖だけは拭い去ってくれた。
「それでいいのか?」
高いような低いようなやけに落ち着いた声が、肉をより深く抉る前に刃を止めた。
振り向いても誰もいない。そこには相棒があるだけ。だが、姿の無い声の主はさらに続ける。
「死ぬことは簡単だ。だが、お前は本当にそれでいいのか?」
次の言葉は後頭部の方、窓の外に響く雨音の中から聞こえた。
「分かったようなことを言う――」
ずぶ濡れの黒猫が、外から窓を引っ掻いている。呆然とその光景を見る俺に、黒猫は焦れったそうにもう一度口を開いた。
「驚いていないで早く開けろ」
窓を開くと雨音がより大きく聞こえる。強い風と共に、長い尻尾を高く突き上げた黒猫が、ひょいっと部屋に降りた。すぐに窓を閉めたが、おかげで窓周辺が随分と雨に濡れてしまった。
黒猫は器用にひょいひょいとゴミを避け、僅かに覗く日焼けした畳と、その上に敷かれた布団に、足跡を無造作に刻む。
黒猫はしばらく部屋を散策すると、一度素早く小刻みに震えて水気を飛ばし、俺の前に腰を下ろした。青と黄の、左右違う色を持った瞳が俺を射抜いた。オッドアイの黒猫とは珍しい。その上、生意気にも言葉を話すとは。
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