一章 デアイ

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 いつもの仕事場にて有り得ない状況。突然の事に豪は動けないでいた。両拳を地面に向けて握り、軽く震えていた。ただ一方的な愛情を受けていた。それを受け入れていた。 (泣いてる) 豪はその涙に気付いた。幸せそうな表情をしている彼女だが、確かに泣いていた。嬉しくて泣いているのか、悲しいのか。全く知らない女性なので真意が分かるはずもない。たださっきの言葉、「最後に」がふいに気になった。会うのは最初だと思うが、これが最後とはどういう事なのだろうか。まるで10代の頃の初恋のような心臓の奮いを感じながら、ただ長く感じる時が続いた。10秒・・15秒・・20秒・・。 「ごめんなさい、急に。勝手にこんな事・・。でもありがとう、幸せだった。さよなら。」  涙を流しながら真っ赤な笑顔でそう言うと、彼女は背を向けて、去って行こうと走り出した。履かれたサンダルがコツコツと音を立て、豪から遠ざかっていく。「ま・・待って!君の名前は?」  20秒間の幸せと思えた瞬間が豪にそう言わせた。これでさよならというのが嫌だった。初対面でありながら、微かでも豪の中には彼女へ好意が生まれていた。待ってほしい、名前を知りたい、もっと深く知りたい。色んな想いが駆け巡り、緊張しながらも伝えたのだった。 叫び声が彼女に伝わり、足早に駆ける歩をピタッと止め、背中越しに身体を震わせている。泣いているからか。そもそも、そんなに自分に会いたかったならば、何故すぐ離れ行くのかも疑問だ。  数秒間無言が続いた。豪も自分の今置かれている状況に戸惑いつつ、謎の女性も未だ背を向けたまま、返事をしない。名前を言うのがそれほど困るのか、迷っているのか、気まずい時間が流れた。静寂の中、冷蔵庫の音だけが微かに聞こえる。換気扇も調理器具もまだ動かしていない。仕事の雑用もまだ片付けてない為、もし今先輩が出勤してきたらこっぴどく叱られるだろう。しかしそう分かっていても、今重要なのは彼女の事だった。そんな中彼女は遂に答えてくれた。 「カンダ サヤ・・」 そう呟いた後、彼女は店を出て行ってしまった。蒸し暑い夏のとある朝方の出来事だった。
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