真田家の未来

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幸弘は真田家の行く末をに話始めた 「石田三成は文治派の長束正家、増田長盛、前田玄以、小西行長らと挙兵しさらに宇喜多、島津、長曽我部らを味方につけ毛利輝元を総大将に担ぎ上げます。家康は上杉討伐から引き返し家康軍に東軍の主力は東海道から進軍します。徳川本隊三万八千は中山道を通り我らの上田城を攻めますが昌幸様の活躍により徳川軍を撃退し美濃の戦場へ参戦させぬことに成功します。しかし美濃・関ヶ原において石田方の小早川秀秋が裏切り石田三成、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘らは敗走します。その後首謀者である石田、小西、安国寺は討ち取られます。昌幸様と信繁様は信幸様の助命嘆願により打ち首は免れますが上田を追放され紀伊・九度山に幽閉されることになります」 「なんと…そのようなことに」 それを聞くとさすがに昌幸も愕然とした 「昌幸様…この戦いに至る前に徳川を倒すのです!」 「…左様であるな」 「それから15年後秀吉の嫡子・秀頼が成人し家康も着々と幕府の体制を整えて行きます。さらに家康は未だに強大な力を持つ豊臣をなんとか切り崩すために京や大坂の寺社などの再建をすべて豊臣に負担させるなどし財力を削って行きます。さらに方広寺の鐘を豊臣が修理した際に家康が言い掛かりをつけ豊臣討伐を決定します。それに対抗するため豊臣は各地の浪人を雇います。信繁様も豊臣の誘いを受け嫡子・大助様と共に大坂に入ります。そして一度目の冬の合戦で信繁様の活躍により徳川軍を撃退し和睦に持ち込みますが家康の謀略により大坂城の堀をすべて埋められてしまいます。そして二度目の合戦で次々と豊臣方の武将は討ち死しますが信繁様は幾度となく家康本陣に凄絶な突撃を繰り返し家康を後一歩のところまで追い詰めますが嫡子・大助様が信繁様の身代わりに討ち死し信繁様は秀頼を救出するため大坂城に撤退します。そして信繁様は秀頼を連れて大坂を脱出し四国を通り薩摩に逃れます。その後、真田の名を伏せ“真江田”と名乗ります」 「…ということはぬしはやはり」 「ようやく分かって頂けたようですな」 「してその後どうなったのだ?」 「それから約20年後に秀頼様の子である秀綱様が島原にて挙兵しそこに信繁様は薩摩に逃れて新たに生まれた次男と共に馳せ参じますが徳川に攻められ討ち死致しました」 今後の真田家はどうなるのか…
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