明かされる真実

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しかし俺にはまだ疑問が残っていた… (真田の子孫なのになんで“真江田”なんだ?) 「親父、この家系図に幸村の次代から真江田だけどなんで?」 「幸弘、少しは頭を使え!幕府の宿敵が逃亡してそのまま真田を名乗ってたらすぐ捕まってしまうだろ!」 「それもそうか…」 真田幸村は大坂から薩摩まで逃げた際、嫡子の大助は討ち死にしてしまい妻も置き去りにしてしまったため子が居なかったが逃れた薩摩の地で新たに妻を迎え無事に後継者も誕生した。だが新たに生まれた嫡子・幸信にまで真田姓を名乗らせると後々危ういと感じた幸村は“真江田”と名乗らせたのだった その後、1637年に秀頼の子と言われる天草四郎時貞が島原で挙兵したのを聞き付けた幸村は嫡子・幸信を残し次子・昌興を連れて島原に馳せ参じ幕府軍10万を相手に獅子奮迅したが子・昌興と共に壮絶な討ち死にを遂げた 「さぞかし幸村公も無念だったろうな」 「今更言っても無駄だけど…」 しかしこの思いは後日、不思議な形で晴らされることになろうとはまだ真江田家の誰もが知る由もなかった
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