第1章

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商の29代目にあたる帝乙(テイイツ)には3人の息子がいた。長男は微子啓(ビシケイ)、次男は微子衍(ビシエン)、三男が寿王(ジュオウ)。この三男が、のちの紂王(チュウオウ)である。 ある日、帝乙は庭園に遊び、文武緒官を率いてボタンを眺め楽しんでいた。 すると建物の1本の梁が落ちてきた。とっさに、三男の寿王が両腕で梁を支え、帝乙の命を救った。 この為、首相(=筆頭大臣)の商容(ショウヨウ)、上大夫の梅伯(バイハク)と趙啓(チョウケイ)らが寿王を東宮(=皇太子)にと上奏し、三男の寿王が太子に立てられた。 太子寿王は太師(=文官の最上位)の聞仲(ブンチュウ)に託され、天子の位に就いた。そして、紂王と名乗り、朝家(チョウカ)を都に定めた。 文臣として太師の聞仲が、武将として鎮国武成王(チンコクブセイオウ)黄飛虎(コウヒコ)が紂王の政治を支え、国内は太平に治められた。 また、紂王には3人の后妃がいた。中宮には元妃(ゲンヒ=皇后)の姜(キョウ)氏、西宮には妃の黄(コウ)氏、馨慶宮(ケイケイキュウ)には妃の楊(ヨウ)氏。いずれも品行正しく心優しい上に、賢明で貞淑な優れた后妃達だった。 こうして、紂王は天子として無事に国を治め、民百姓も安心して暮らし、気候もよく平和な日々が続いていた。周辺の部落も紂王に従い、八百の緒侯も商に帰順した。 この八百の緒侯は4人の大緒侯に統率されていた。 東伯侯の姜桓楚(キョウカンソ)、南伯侯の鄂崇禹(ガクスウウ)、西伯侯の姫昌(キショウ)、そして北伯侯の崇侯虎(スウコウコ)である。 この4人がそれぞれ200もの緒侯を率いていた。 紂王が即位して7年目の春の2月、急な知らせが朝歌に届いた。 北海の袁福通(エンフクツウ)ら72人の緒侯か謀反を起こした。さっそく太師の聞仲が命を受けて、北征に向かった。ある日、紂王は文武諸官に言った。 「上奏する事があればよし、無ければこれで退出するぞ」 すると、1人前に進み、平伏し、笏(シャク)を両手で高く掲げ、「万歳」を唱えつつ口を開いた。 「朝廷の法紀を司る商容が申し上げます。明日は3月15日で、女カ(ジョカ)様の生誕の日で御座います。陛下、是非とも参拝なさいませ」 「女カにどんな功徳があって、君王たるわしが、参拝に行かねばならないのか?」
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