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聴こえないのに俺は誰にピアノを弾けば良いのか。
それも分からずに彼女に誘導されるがまま席に着いた。
意味の分からない緊張や混乱の中、鍵盤に指を置きピアノを奏でる。
彼女に視線を向けると、静かに俺の投げたホウキを拾い掃除を初めていた。
今まで俺のミーハーに埋もれていて、掃除をしていた彼女の存在に気付かなかったらしい。
彼女から視線を鍵盤に向けて、誰に向けて弾いているのか分からない演奏をする。
気持ちの込められない演奏は俺にとって淡白なものに感じられた。
演奏が終わると、控えめな拍手が耳に届いた。
端で椅子に座り、彼女が笑顔で拍手をしている。
届いていないはずなのに、俺は今日の味気ない演奏に恥ずかしくなった。
彼女は立ち上がり、俺の側まで寄ると携帯の画面を見せた。
『お疲れ様です。今日は寂しい拍手でごめんなさい。でもあなたの演奏を独り占めできて贅沢でした。
私には勿体ない演奏でした』
あんな演奏を贅沢と言わせてしまい、恥ずかしさと惨めな思いが込み上げる。
それと同時に彼女の為に完璧な演奏を聴かせたいと思ってしまった。
叶わない事とは気付かず、俺は願うように彼女の手を取り思ってしまった。
誰にも届いていないと思っていた俺の音は、彼女に届けば全ての人に届くのではないのか?
そんな無謀で無茶な事を考えてしまった。
奇跡のような出来事を思ってしまった。
「俺の為に俺の音を聴いてはくれないか?」
彼女に分かるよう、ゆっくりと唇を動かした。
彼女は俺の行動に驚き、慌てて手を振りほどくと携帯に指を移した。
『私は音が聞こえませんが良いのですか?』
彼女しかいない。俺は頷いて真っ直ぐに見つめた。
彼女は赤面し、再び携帯に指を置いた。
『では、掃除当番の日だけで良かったら。贅沢させてくgd/』
最後は慌てていたのか、変換がおかしな事になっていた。
頬を赤らめ、お辞儀した彼女はそのまま小走りに音楽室を出ていった。
扉の所でつまずき転びそうになっていた彼女に思わず笑いが出た。
そのまま高ぶった気持ちを、ピアノにぶつけた。
次に彼女に会う日が堪らなく愛しく感じられる。
こんなに満たされた気持ちになったのは久しぶりだった。
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