雛菊

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彼女の好きな花は雛菊だ。 理由を尋ねたら恥ずかしそうに「無邪気」とだけ彼女は言った。 雛菊の花言葉が無邪気だということを知ったのは中学を卒業してからのことだった。 今も相変わらず代わり映えのしない日々を送っているけれど、今のそれが辛いものなら、かつてのそれは優しいものだった。 毎朝母親の怒鳴り声で起きる。大急ぎで支度をして、遅刻ギリギリの時間に家を飛び出し、汗だくの体で部活をしていた体育館に飛び込む。手早く着替えて、やたら熱い顧問に辟易しながらも、ラケットを振る。部活が終わる頃には今度は朝のホームルームに遅刻そうになり、再び急いで教室に向かう。眠い目を擦りながら授業を受けるので、授業に集中に出来ない。給食の時間が近づいて来ると、今度はお腹の虫が鳴き出す。給食を食べ終わったら気が合う仲間と気ままに過ごしていれば、授業が始まり、満腹感が眠気を誘い出す。そうこうして眠気に堪えていれば残りの授業は終わり、掃除をこなす。この頃からちょっと憂鬱になってくるのは部活が放課後もあるからで、急に雨が降りだし今すぐにでも洪水にならないかな、とか夢のような話を本気で同じ部活のあまり強くない連中と話しながらなんだかんだで部活に参加し、なんだかんだで楽しんでいた。 一日の大半は彼女を目で追っていた。 つやつやの髪に、卵形の顔。小さくてかわいらしい鼻と適度な薄さの唇。小さな耳は長い髪に隠れている。かわいらしい笑顔で微笑み、きれいな声で話した。 遠いようで近い存在だった彼女と一日に一回は話したし、それだけでよかった。 それだけでよかったから僕と彼女はそれっきりになり、今も僕は思い出を抱えている。 5月の風が限界まで緑色になって、陽光につやめく若葉を揺らしていた。 涼しげな葉のなる音が鼓膜を擽り、日にあぶられて香る木の匂いが優しかった。 風に揺れる可憐な花の香りは僕らには届かない。 「なんでだろうね?」と言った彼女の問いの答はまだ得られない。 風が、川沿いに広がる土手を駆け抜けた。 一つ一つの輝きが連なり、光の波が土手を流れた。 季節外れの紋白蝶と僕は終わった春を認めようとしない点で似ていると思った。 新しい季節の気配を忍ばせる澄んだ青空から僕は目をそらした
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