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ピンクの霞に埋もれていた山脈(やまなみ)は知らない内に鮮やかな緑色の衣を纏い、僕たちを見下ろしていた。
山のあちこちに見えた桜の点々は消えて、一面を緑が支配していた。
もちろん、そこにあるのは木々だけでなくて、山に咲く花は今が見頃なのだろう。
しかし、遠く離れたここからはそういったものは見えず、ただただ、緑に埋もれる山々の鮮やかな様子だけがうかがえた。
山々に四方を囲まれたこの町は、冬は山から吹き下ろされる冷たい風で寒く、夏は夏で熱気がこもる。
だからなのか、季節ごとの風景ははっきりと現れる。
季節の移り変わりを追うだけで一年は瞬く間に過ぎてしまい、結局まだ見ていない景色が多すぎる。
その時その時で季節の感じ方は異なり、彼女と一緒に過ごした冬は暖かく優しいもので、一人で過ごす今は5月の風すら切ない。
川沿いの道を一人でこぐ自転車は、スイスイと進んでいくのに、僕の気持ちは遅々として進まず、彼女と過ごしたあの頃のままの止まっている。
忘れられず、かといって何かを得られるわけでもない。
それでも忘れられないし、変わりたいと思っていても変わらない。
未練がましいのは認めるけれど、僕の大切な部分を占めている思い出を忘れてしまったら今の僕を否定することになってしまう。
自転車を家の前にとめた僕は、複雑な模様を描く山々を見上げた。
心の中で彼女の名前を呼んだ。
山脈は、僕の心残りを吸い込んでなお、そこにあった。
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