檸檬

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忘れてはいけない事が人生にはあると思う。それは道徳的なこともそうなのだろう。けど、そんな高尚なものじゃなくて、もっと大切な事があるはずだ。 僕にとってのそれは彼女との思い出で、その思い出はいつも檸檬の香に包まれていた。 檸檬の花言葉が『誠実な愛』だと知ったのは、大学生になってからで、彼女との距離があらゆる意味で余りにも遠くになってしまってからだった。 もちろん彼女もそこまでは考えていなかったかもしれない。それでも、中学二年の僕たちには檸檬の香に包まれた誠実な愛がよく似合っていたと思う。 彼女に望んだのはプラトニックな愛で、そこに肉体的な欲望が入り込む余地は全く無かった。 未来の形を思い描いては一人でにやけ、彼女に変な目で見られた記憶もある。互いの思いがわかってるから、思いを伝え合う努力をしなかった。言葉にしなければその思いは所詮独り善がりに過ぎないと、わかっていたのに友達以上恋人未満の心地好いぬるま湯に浸り続けていた。 彼女と再会したのは、センター試験直前の小雨舞う寒い朝だった。横断歩道ですれ違っただけで、何を話したわけでもない。 ただ、彼女は微笑み僕もそれに応えた。 それだけなのに世界は光に包まれ、憂鬱な緊張に暗くなっていた空は輝度を増した。 それからは一度も会っていない。 帰省先で街を歩く時はいつも、もしもの可能性を探している。 でも、僕は向こうからそれが来るのを待つだけで、可能性に向かって歩こうとはしない。 あの頃と何も変わっていない。 変わらないね、と彼女は笑って許してくれるだろう。でも、僕は変わらなければいけない。 そうでなければ、無愛想に過ごす毎日が無意味になってしまう。 彼女と過ごした冬の日は、ぽかぽかに満たされた心で暖かかった。 季節外れの檸檬の香と授業中に髪をすく彼女の手の動きと、彼女の寝息が聞こえるだけ空いた二人の距離とオレンジ色に教室を照らす柔らかな冬の日差しと彼女との距離が急に離れていった5月の風の声。 縮められなかった距離と今も心の中に残る檸檬の甘酸っぱい香は、僕を優しく締め付けて離さず、今も僕を僅かな可能性に引き留める。
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