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『ほら、まずは体を洗っといで。いや、それともまずは腹でも満たした方が良いかい?』
40代ちょっといった女性。茶褐色のフワフワした短髪に同色の瞳をしている。少し小太りで、世話好きなおばさんといった雰囲気があった。
彼女は私にタオルと着替えを渡そうとして、しかし何も食べてないからお腹を空かしているんじゃないかと予想してしばらく悩んでいた。
女性に連れられて来たのは、旅芸人一座の移動舞台に付いている部屋のひとつだった。
初めて見るそれに私は興味を惹かれ、女性が悩んでいる間も目線は落ち着かずキョロキョロとしていた。
『…何か食べさせるならせめて顔と手くらいは洗わせた方が良いね』
ようやく決めたのか彼女は呟くと私を手招いた。
『ほら、おいで。何か食べさせたいとこだけど先に手と顔を洗ってしまおう』
『…………うん』
私は小さな返事を返し、そのまま彼女の後に付いていった。
『――そうそう、私はミリアって言うんだけどアンタはどう呼べば良いかい?』
洗面所に入り、濡らしたタオルで私の顔を擦りながら彼女―ミリアおばさんは訊いた。
『アリ……ぅぶっ』
『なんだい、アリっていう名前なのかい?』
タオルに阻まれ、失敗した言葉をもう一度言い直す。
『……ちが…う。――アリアっていうの……』
『…アリア。いい名前してるじゃないか』
『……そう、なの?』
『何だかこう、歌とか歌わせたら似合いそうな雰囲気の名前だね。声もいいし。
どうだい、座長に頼んであげるからここで歌うっていうのは』
『……歌……?』
突然のミリアおばさんの提案。
名前から歌を連想してそれを役割にあてようと考えるなんてちょっと安直過ぎる気もしたけど、後にそれが私の一番のモノになるなんてこの時は思いもしなかった。
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