146人が本棚に入れています
本棚に追加
ガタンと音を立てながら、バスは発進した。少しよろけた彼女を支えると彼女は照れたように笑った。
とりあえずK街から離れようと思った。この街に嫌悪感を抱いているのもさることながら、それ以上に何か漠然とした焦燥感にまた襲われたからだ。早く、一刻も早くこの街から出なければいけない。
-早く、早く…。
また急かすような囁きが頭を支配した。
-急がなければ…。
続く言葉は分からなかった。
「バスに乗ったの初めてなんだ。案外広いんだね」
興味深そうに車内を見渡しながら彼女は言った。
「初めて?」
尋ねながら彼女に座席に座ることを勧めた。
「うん。小さな車とかタクシーは乗るんだけどね。バスは初めてなの」
彼女は座席の感触を楽しむように腰掛けた。
「へー」
違和感を感じながら適当な相槌を返しながら、彼女の隣に座った。深く考えることを拒否していた。
「ねぇ、これから何処へ行くの?」
「何処へ行きたい?」
彼女のことが知りたい。逆を言えば彼女のことはまるで知らない。だから尋ねた質問だった。
「分からないよ」
彼女はそんなことを言った。
「分からない?」
「うん。君は私のことを知りたいって言った。でもね。私も私を知らない。君と同じ位、もしかしたら君以上にね」
「冗談だろ?」
彼女の表情は真摯としていて、とてもからかっているようには見えなかった。それでもそんなことを言っていた。だって、そうじゃないと。
「冗談、みたいな話だよね」
怖かったんだと思う。
「でも本当なんだ」
恐かったんだ。
「だって私…」
逃げ出してしまいそうだった。今すぐにバスの窓を割ってでも外に出たかった。事実だと認めたくなかった。
「売られたんだもん」
信号が赤色に変わり、穏やかにバスが停車して、エンジン音が停止した。
最初のコメントを投稿しよう!