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ヒロヤ先輩が話し始める。
「その日はじとじとと嫌な雨が降っている日だった。まだ夏が始まる前…だからちょうど今くらいだね。それなのにすごく寒い日で、おじさんは予定よりも少し早めに宿に向かおうと思ってタクシーを拾ったんだけど、宿の名前を言った時に、運転手が「嫌だなぁ」って言うんだよ」
彼の声のトーンがさらに一段下がった。
どうしたってこういうのは雰囲気が出すぎる。飲み屋のテーブルと言うのは微妙に狭くて距離が近く、声を潜めて話すには丁度良いのだ。
彼は続けた。
「なんでだって聞いたら、運転手はちょっと勘が鋭い方で、その宿の近くに行くとなんだか嫌な感じがするんだって言う。そこらで事故か自殺でもあったのかは分からないけど、とにかく山道だし、夕方以降は薄暗くて嫌な道なんだって」
ヒロヤ先輩があたし達の目を見回す。
朱音がこく、と喉を鳴らす音が聞こえた。
「おじさんは霊感とか全然ないんだけど、なんかやっぱり嫌な感じはしてたらしい。まぁ、それでも宿は予約しちゃったし、行かないわけにはいかない。仕方なしにそのままタクシーに乗っていくと、ふっと誰かに呼ばれた気がした。でももちろんタクシーの中には、運転手とおじさんしかいない。でも確かに呼ばれたような気が…」
この時点であたしはゾクッと来ていたのだけれど
「なんだよ、気がしたって。曖昧だな」
呆れたようにキョン先輩が言う。だが、ヒロヤ先輩は得意げにくすりと笑った。
「まぁまぁ、話は最後まで聞きなさいって。タクシーの無線だよ。無線から声がしてたんだ」
そこでヒロヤ先輩は一度言葉を切り、すぅっと息を吸い込んだ。
「ノイズに混じって確かに聞こえた。「わ…たしを…乗せて…」ってね」
ゾワァッと鳥肌が立つのが分かった。ヒロヤ先輩の言い方には妙な迫力があったのだ。
「それも聞いたのはおじさんだけじゃない。運転手も聞いていて、もちろんそんな所で止まることもなく、宿まで無事にたどり着いた。その間、もうその声は聞こえなくなっていたから、運転手さんは「帰り一人で帰るのやだなぁ」なんて言いながらも、おじさんを宿に残して去って行った」
あたしならその時点で発狂しているかも知れない。
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