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それであたし達の山形旅行は終わりを告げた。
仙人沢の物静かな墓地で、プーが手を合わせた時の、あの姿。
あれは食事の時に見せる、彼の挨拶の姿ととてもよく似ていた。
あたしがあの時に言おうとしたこと。
(もしかしたら、ご飯の時、プーはひいひいおじいさんのことを考えてる…?)
彼の高祖父は、余りの村の飢餓に身を挺し、望まぬ即身仏になるため、山籠もりをしたと言う。
山籠もりの間、穀物を断ち、木の根を食べ、自ら餓死状態に体を近付けて行く。
身内にそんな苦しみを味わった人がいるから、プーは食事を大切にするのではないだろうか。
彼に直接それを聞く機会はなかったが、その後、彼と食事をするたびに
「頂きます」
と綺麗に手を合わせるその姿が、ただの挨拶を越え、祈りの姿にすら見えた。
しかし、もしそうだとしたら。いや、ほぼ確実に。
(プーのひいひいおじいさんの霊は、まだこの世に残っている…?)
あたしはそう思わずにはいられない。
プーがあの墓地で言っていた。
「自ら即身仏になろうとするってことは、他の人が救われれば、自分は報われるって考えだろ。そういう心の持ち主なら、きっと恨みなんか残さずに消えるんだろうな」
しかし、プーの高祖父は違う。
望まぬまま即身仏になろうとしただけではなく、自らの身に禁忌とされる呪いすら掛けたのだ。
しかもそこまでしたのに体は腐り、即身仏にはなれずに土葬された。
「人が手を合わせて拝むだけで、霊は癒される」
プーがそう言っていた。
多くの人の墓参りもあり、きちんと癒されているであろう、自ら即身仏になろうとした仏僧と違い、禁忌の呪いを行った高祖父の弔いを、顛限院では行っていない。
いくらプーがお墓参りをし、食事のたびに祈っていたとしても
(プーの高祖父は、まだ癒されてない…)
普通の霊は、何十年と言う時間を掛けて、ゆっくりゆっくり癒されるものだからだ。
自らに呪いを掛け、体を腐らせ、その墓すら掘り起こされたと言う人物の魂は、もしかしたらまだあの村を彷徨っているのだろうか。
或いは、呪いや恨みを忘れ、癒されているだろうか。
その答えを、あたしが知る由はない。
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