6人が本棚に入れています
本棚に追加
ふせっていた顔を上げれば、暗い海が、建物の影に隠れて、そっと姿をのぞかせていた。
まぁるい地球で、大地に足を着く人間の、見渡せる範囲の限度までのびた水平線。
昔の私は、海上に引かれた一本の線以外に、見えるものが何も無い、虚ろなこの感覚を、ひどく畏れていた。
だが今はもう、それすら自分に重ねて親しみを感じている。
『死ぬなら海がいいな…』
今までにも何度となく、自分が死にゆく日のことを考えては、甘い夢想を思い描いてきた。
結局実行出来ないで、今の今までだらだらと生き延びてきてしまったけれど…。
ただ、はっきりと言えることは、今日の決心はいつにも増して堅かった。
『そうよ…先生のいる海でなら、死ぬのもきっと、怖くないわ』
漠然とした思いは、口にしたことで、確信へと変わった。
風が強まる。
淡い桜色の、お気に入りのネグリジェがぶわりとめくれる。
いつのまにかリボンはほどけて、長い髪が風になびいていた。
(待ってて先生。…今、行きます)
ベランダに背を向けて、一歩足を踏み出す。
…もう、何も迷わない。
迷っている暇などない。
不思議なことに、凍えるような夜明け前の冷気も、今の私には少しも冷たく感じられなかった。
ほんの少し、さっきポッドに入れたばかりのカフェオレが、心残りだったけれど。
気付かないふりをして、組み立てた天体望遠鏡もそのままに、ベランダを後にした。
最初のコメントを投稿しよう!