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…いや、しようとした時だった。
風の音に混じって、どこからともなく、フルートの優美な音色が聴こえてきたのだ。
『え―…?』
瞬間、遠い昔の、まだ私が一点の曇りもない、幸福な日々を送って頃の記憶が甦った。
『こぉら美夢ちゃん、早くねんねしなさい。でないとねむねむおじさんが迎えに来てくれないんだから』
耳元で囁かれるとくすぐったくて、撫でるように優しかった、ママの声―…。
『嘘でしょう?』
不眠症では飽き足らず、とうとう幻聴まで聞こえてしまったのかと、耳を何度も叩いたが、それどころか、音色は時が経つと共に鮮明になっていった。
心なしか、音の出所がさっきよりも、近付いて来ているように思えて仕方ない。
にわかには信じられないと、自分に言い聞かせるつもりで首を横に振った。
『だって、だってあれはママのお話の中の…』
そうこうしている内にフルートの旋律はすぐそこまで迫ってきていた。
もうここまでくると、驚きというよりかは、恐怖に近い感情が湧く。
(な、何?何なの一体―…?)
すぐにも逃げ出したいのに、全身が硬直したように動かない。
すぐ後ろで、フルートの音色がぴたりと止まった。
どくん…
どくん…
どくん…
心臓の脈打つ音が頂点に達した。
確かな人の気配を背後に感じる。
かすかな衣擦れの音と同時に、こつん、と、ベランダの柵に靴音が鳴り響く。
恐る恐る、後ろを振り返った。
『さぁお嬢さん。今日は何の夢を見ようか』
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