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――気が付けば、和葉は伏見の町を歩いていた。
先日の事を考えながら無心で向かっていた為か、奇跡的に迷っていない。
事実、足を止め見上げた先には、藤堂と来た宿屋の看板が見えた。
「ふ、自分だってやれば……」
相手は居ないが、威張る和葉。手には宿屋に借りた浴衣と今朝作った煮物の余りがあった。
(返すのが遅くなってしまったからな)
宿屋からすれば浴衣の一つや二つ、さして問題はないだろう。しっかり洗って返しに来る所、案外と律儀な性格の和葉らしい。
藤堂には「今まで通り」などと言われたが、一人で来てしまうのはやはり心の何処かに蟠(わだかま)りを残しているからか。
行動派というよりも思い立ったら吉日とばかりに飛び出してきた和葉。
朝餉と昼餉の用意はしたものの、残してきた店を心配せずにはいられなかった。
「んー、やはり夕餉用に米を研いでおけば……いや、それより煮物の味は薄いか……」
「そこの殿方、何してはるんどすか」
ぶつぶつと独り言を続けていた和葉に、誰かが声を掛ける。
振り向けば、そこには吊り上がった目が印象的な、怪訝そうな顔をした小柄な女が立っていた。
「いや……」
「そやったらええんやけど」
酷く淡白な口調の女は、手に持っていた杓と桶で水まきを始めた。和葉の事など無関心らしく、その表情は読めない。
和葉は肩を竦めると、再び宿屋の看板を見上げる。そして、戸を叩こうとした時、再び声が掛けられた。
「今日は休み。女将さんは大坂。暫く帰りはらへん」
今度は慌てて振り向くも、女は澄ました顔で水まきを続けていた。
「あ、有り難う……」
「別に。帰り待つんやったら、うち寄る?」
指差した先は和葉が尋ねる予定だった宿屋の隣。
「いいんですか?」
「別に。ただ、そんな所でふらふらしてたら商売の邪魔。そやし、あの人にも迷惑」
淡々と言い放った女は中へと入り、和葉は戸惑いながらも後に続く。
最後に見上げた看板には、船屋【寺田屋】――そう書かれていた。
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