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「おハルちゃん、水まき終わりはった?」
寺田屋に入ると声が響いた。続いて足音が聞こえたかと思うと、和葉の前に一人の女が現れる。
琴江と同年程だろうか。白髪を交えているが、とても若々しく見えた。
「終わりました、奥様」
おハルと呼ばれた和葉に声を掛けた無表情の女は、僅かに頬を緩めると頷いた。
「おおきに。そんで……この殿方は……お客様?」
「隣の宿屋に御用やったらしくて店の前でうろついてはったから、連れてきたんです。迷惑やったから」
首を振り否定する和葉に代わって、ハルが簡潔に説明する。
「そうなんどすか?」
「あ、はい。以前、隣の宿屋にお借りした浴衣を返したくて」
和葉が慌てて浴衣を示せば、女は腕を組む。
「そら、諦めた方がええよ。隣の御主人、大坂に御用言うとったさかい……帰りは明日になるんちゃうやろか」
「あぁ……では待っていても意味はないんですね……」
何て間が悪い、和葉が肩を竦める。
「そやったら店に上げる必要はなかったんですね、女将」
「こら、おハルちゃん。お客様の前でそないな事言わはらへんの」
「……けど、ほんまの事ですから。殿方もお泊りになるんやったら別ですが、違うんやったらお帰り下さい」
そのままニコリともせず、ハルは言い放つと台所へ姿を消した。
「堪忍ぇ。おハルはここの女中やねんけど……誰にでもああやさかい。無愛想やけど、ほんまに怒ってる訳やないから」
「大丈夫ですよ。本当に無愛想ならば自分なんて、店に入れて下さいませんから。有り難うございます」
和葉がそう言うと、女は驚いたように目を見開いた。
「……才谷はんと同じ事言いはるわ……」
「?」
「気にせんとって。そや、うちはお登勢。ここの女将やさかい」
突然自己紹介を始めた女――登勢は、自身の胸を叩く。
「せっかく伏見まで来てくれはったんやろ? お茶くらいご馳走させて下さい」
「いえ、自分……そんな、迷惑……」
「うちが気に入ったんどす。ええやろ?」
茶目っ気のある笑顔で言った登勢の誘いを断る理由などなく、和葉は中を案内されるのだった。
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