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「それじゃ、春川、またな」
「おう」
同期の門下生達に手を振り、拓也は革製の防具袋がぶら下がった竹刀を肩に担ぎ、帰路を歩き始めた。
胴着姿で帰り道の商店街を歩くのには、もはや慣れていた。小学生の頃は恥ずかしさもあったが、今では多少、誇らしくもある。
「受験か……」
夏の夜に浮かぶ満月を見上げながら、拓也はぼんやりと呟いた。
「俺は何をすりゃいいのかな……」
拓也の学校の成績は、決して悪くはない。常に平均以上はキープしている。無論それは、剣道を続けても、両親や教師から小言を言われないための、最低限の彼の努力があってのものだ。しかしそれ故に、拓也にとって抜きん出ているものは、剣道だけだった。
「全く……困ったもんだ」
呟きながらも、彼は楽観的だった。何事も、やればなんとかなる。それが師、佐藤先生の教えであり、彼のモットーでもあったからだ。
「自分に厳しく、人に優しく、心は力、親は宝、楽あれば苦あり、苦あれば楽あり……」
道場訓を鼻歌のように暗唱しながら、全力で体を疲労させた拓也は、上機嫌だった。
「助けは大いに求めよ、助けを求められたなら応えよ……」
「助けて」
声がした。
「……?」
「助けて」
若い女性の声だった。その声が自分に対して向けられたものだと感じた拓也は、足を止めた。視界の先に人はいない。気付いた時には、彼は既に商店街を抜け、人通りの少ない細道に立っていた。
「誰?」
振り返る。しかし、誰もいなかった。そして、嫌な汗が流れた。
(今、どこから声がした……?)
目より、耳を疑った。その声はまるで、頭の中に直接響くような……脳に響くような、奇妙な刺激だったからだ。
「……」
確かに聞こえた。しかし、それ以上、その声が脳を刺激することはなかった。
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