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妻の妙子が死んだかもしれない。その言葉を聞いても山田は悲しみどころか何の感情も呼び起こされなかった。
よその国の出来事の様で全く実感が湧かないのだ。
ふと今朝家を出る時の彼女との会話が頭に思い浮かんだ。
「行ってらっしゃい」
彼女は鞄を渡してくれた。
「行ってきます」
鞄を受け取り踵を返してドアを開ける。
結婚してからもう何千回も繰り返された朝の光景だ。
だが、なぜか記憶の中の彼女には顔が無かった。
表情が思い出せない訳ではない。どんな顔だったかを全く思い出せなくなっていたのだ。
八年も連れ添った仲だと言うのにどんなに考えても顔は思い浮かばなかった。
「山田さん」
電話の声で我に返った。
「は、はい。え~っと……あの、これから伺います」
思わず声が裏返る。そして二言三言、言葉を交わして受話器を置いた。
同僚たちは相変わらずお喋りに興じている。山田にかかって来た電話には誰も気付いてはいない様子だった。
ふと思った。
遺体を見ても妙子の顔を思い出せなかったらどうしようかと……。
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