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人工物。
【寫眞館】
ここは、母の勤め先だったらしい。
らしいというのは、僕が生まれた頃にはやめていたから。
曇り気味の窓ガラスの向こうには、幾点かの日に焼けた写真がある。
母は、ここでアシスタントをやっていたらしい。
子供を笑わせたり、フヰルムを交換したり。
時々、ふと母の顔が昔に戻る。
そんな時は大抵、父の話か、この写真館の話だ。
僕が、そんな母を思い出していると、中から小柄な老人が顔を出した。
手には、布を持っている。
排気ガスで曇った窓ガラスに布を当て、老人はそれを丹念に拭き始めた。
その姿を見て、
僕は、胸の奥から何かせり上がる物を感じた。
気付けば、老人に焦点を合わせて、シャッターを押していた。
老人は、何も言わなかった。
この写真館は、来月取り壊しが決まっている。
ここを売って、老人は都会にいる娘夫婦のもとへ行くそうだ。
僕は、シャッターをきりつづけた。
母が青春時代を過ごした場所を、この老人が長年守ってきたこの場所を。
何か、形に残したかった。
他人にとっては、どうでもいい場所。
でも、彼らには大切な場所だ。
何かをしたかった。
何でもよかった。
もし、この写真を見た母が、懐かしいと笑ってくれるのであれば、老人が笑ってくれるのあれば。
でも、僕には、シャッターを押すことしかできなかった。
できれば、ここを残してやりたい。
でも、それはできないから、僕はシャッターをきることしかできない。
やがて、老人が窓ガラスを拭き終える。
彼は、僕を見て、ひとつ頭を下げた。
シャッターをきる手が止まった。
気付けば、僕も頭を下げていた。
晴れた、暑い日のことだった。
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