善意の押し付け

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 とある街に一人の男が居た。  彼は生まれが高貴だったり、超人的な才覚に恵まれていた訳でも無かった。  凡人、といえばそれまでだが、在学中は問題行動や落第などせず、人間関係も特にこじれた様子も無かった。生業としていた林業の力仕事もそつなくこなし、平均以上の収入を得ていた。  結婚も至極妥当、20代後半に家庭的、建設的な歳の近い女性と結ばれた。  家庭を築いてからのその妻は、家事をこなし夫を理解する、まさしく良妻賢母の鑑であった。  先程から「生業としていた」や、「良妻賢母の鑑だった」など、しきりに過去形で語られている。それもそのはず、男は突然、全てを失ってしまったのである。  妻が病気を患い、急死してしまったのは昨年の冬。雪が深々と降り積もる宵だった。  彼女は愚痴一つこぼさずに、良き妻を必死に演じていて、中に闇を溜め込んでいたとでもいうのか。この不幸の原因は不明だが、いずれにせよ過労が一因である可能性を否定は出来なかった。  男は泣いて自分を責めた。  自分が妻を気遣い、助けていればよかった、と。  目の前に当たり前に存在している内は気付けなかったその大きさ。男は失ってからそれに気付かされた形だ。  無気力状態が続き、今までは業績の良かった仕事にも支障をきたすようになってきたのは言うまでもない。  男はその後間も無く解雇された。  今まで真面目に働いてきたこの男にとっては酷な話だが、林業業界全体は昨今の経済不安に陥る前から下火で、業務を存分にこなせなくなった者にタダ飯を食わせるような余裕は、ないのだった。  以降、男は困窮を極めた。  林業一筋で生きてきた中年男が簡単に再就職出来るかといえば、勿論そんな訳はない。  バイトの皿洗いに配達員、それでも食い繋いでいくにも足りず。時には多かれ少なかれ悪の道に手を染めた事もあった。  妻の死を悲しむ気持ちも、残酷な現実の前に薄くなった。風の前の塵に同じ、と先代が表現した儚さである。  やがて男は、長年働いていた林業に未練を残しているという事実に気付いた。そしてその未練が足を引っ張り、稼ぎにも大きく支障が出ているのだと。  五月晴れの爽やかな日、大工のバイト中に、無意識に大黒柱を鋸でギコギコと伐っていた時に、ようやく自覚した。
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