善意の押し付け

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 ある日男は大きな決意を胸に、大きな湖の畔に立った。  手には長年の愛用品――明日の飯が無く、浮浪していた日でさえ手放さなかったもの。  そう、この男はこの湖に愛着ある「相棒」を「捨てる」ために来たのだ。  いや、こう書けば語弊を招きかねないから補足しよう。この湖は、神が宿るという伝承がある由緒正しいものであるし、この男自身も今日の日のために、くたびれたスーツを洗濯してきたのだ。  男にとって、この行為は「捨てる」ではなく「納める」の意味合いがあった。  男は湖に向かって両手を合わせ、深々と腰を曲げた。そして、力一杯「相棒」を投げ込んだ。  男の手からは物品と共に、その思い入れも放たれていった。 男の心は爽やかな風が吹いていた。  もう一度、男は深々とお辞儀をした。  すると突然、湖面が急に泡立ち出し、辺りが異様な雰囲気に包まれた。  男の心は、湧き上がる恐怖心にさっきまでの感情はさっぱり洗い流されてしまっていた。  唖然とする男の前に、湖面から垂直に上がってきたのは、水滴一つないまま両手に金銀を持ち、清らかな微笑みを顔に浮かべた、神々しい女性だった。  男はそれに今までただの一度も面識などなかったが、それが女神であると瞬時に悟った。 「貴方が落としたのは、この光り輝く金の鋸ですか?」 と、女神が唐突に、人間離れした清い声で語り始める。  もちろん男は純金製鋸など、ただの一度も目にした事などない。 「い、いえ、いいえ、違います。そんな立派な鋸……。滅相もない」  男が声を震わせながら絞り出すと、女神は微笑んで続けた。 「それではこの、艶やかな輝きの、銀の鋸ですか?」  男の生涯のうち、銀色に輝く新品の鋼鉄製ならいくらでも見てきた。が、銀、となると鋼鉄とは比べ物にならない程の光沢だ。 「い、いえ、投げ落としたのは、継ぎ接ぎだらけで、年季の入り、あちこち錆びたけれども頑張ってくれた鋸です…」  男は萎縮しながらも真実を述べた。  女神は頷き、より深く微笑んで続けた。 「なんて誠実な方なのでしょう。この二つの鋸は差し上げます。我が主は、貴方がこれからも誠実さを持ち続けられる事を願っています」  言い終えると女神は、登場時と同じ様に、垂直に湖へと消えていった。
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