日本シリーズ

3/17
37人が本棚に入れています
本棚に追加
/120ページ
「しかし、今時珍しいですね。こんな車でタクシーなんて」  男はよく喋った。よく喋っているうちに、このタクシーのことにも触れた。 「まぁ、時代も時代ですから。こういうのもありなんでしょう」  そう言うと男は笑って「時代ですかぁ」と楽しそうに笑った。  楽しそうに笑う男に目をやると、ふと私はおかしいと思った。  その男の服装は厚手の汚いコートを着ていたのだ。  5月ももう半ばで、暖かいこの時期に、コートはやはりおかしい。  冷え性、なのか?  そう思った矢先、男は「あ、あの家です」と指差した。 「そうですか、では代金は2450円になります」 「結構タクシーも高くなったんだなぁ……」  言いながら男は、しわくちゃになった千円札2枚と小銭を出した後、お釣りを渡した。 「あ、あの、あなたに頼みがあるんですけど、いいですか?」  今まで明るい表情だった男の顔が曇った。 「なんでしょう?」  男は汚れたコートの内ポケットから野球のチケットを2枚取り出し、私に渡した。 「これは?」 「渡してほしい人がいるんです」 「え?」 「私の息子なんですけど……」  少しずつ男の声のトーンが落ちていく。 「それならあなたが……」  言いかけると、男が挟みかけた。 「別居中なんです。離婚間近ってやつですかね」照れくさそうに笑いながら続けた「渡しにくいんですよ。だから、もしよければ、あなたが私の代わりに渡していただければ……」  拝むようなポーズでお願いをする男を見て、むげに断ることもできずに、渋々受け取った。 「分かりました。渡すだけで、いいんですね?」 「ええ。渡すだけでいいんです。息子はこの家に住んでいますから、出てきたときに渡してください」  そういって私はその男と別れた。
/120ページ

最初のコメントを投稿しよう!