37人が本棚に入れています
本棚に追加
/120ページ
「しかし、今時珍しいですね。こんな車でタクシーなんて」
男はよく喋った。よく喋っているうちに、このタクシーのことにも触れた。
「まぁ、時代も時代ですから。こういうのもありなんでしょう」
そう言うと男は笑って「時代ですかぁ」と楽しそうに笑った。
楽しそうに笑う男に目をやると、ふと私はおかしいと思った。
その男の服装は厚手の汚いコートを着ていたのだ。
5月ももう半ばで、暖かいこの時期に、コートはやはりおかしい。
冷え性、なのか?
そう思った矢先、男は「あ、あの家です」と指差した。
「そうですか、では代金は2450円になります」
「結構タクシーも高くなったんだなぁ……」
言いながら男は、しわくちゃになった千円札2枚と小銭を出した後、お釣りを渡した。
「あ、あの、あなたに頼みがあるんですけど、いいですか?」
今まで明るい表情だった男の顔が曇った。
「なんでしょう?」
男は汚れたコートの内ポケットから野球のチケットを2枚取り出し、私に渡した。
「これは?」
「渡してほしい人がいるんです」
「え?」
「私の息子なんですけど……」
少しずつ男の声のトーンが落ちていく。
「それならあなたが……」
言いかけると、男が挟みかけた。
「別居中なんです。離婚間近ってやつですかね」照れくさそうに笑いながら続けた「渡しにくいんですよ。だから、もしよければ、あなたが私の代わりに渡していただければ……」
拝むようなポーズでお願いをする男を見て、むげに断ることもできずに、渋々受け取った。
「分かりました。渡すだけで、いいんですね?」
「ええ。渡すだけでいいんです。息子はこの家に住んでいますから、出てきたときに渡してください」
そういって私はその男と別れた。
最初のコメントを投稿しよう!