1

1/1
前へ
/88ページ
次へ

1

赤い風船。 青い風船。 黄色い風船。 蛯塚圭吾(エビヅカケイゴ)は揺れる風船をただ視線に入れていた。ぼんやりと、そこには特に感情は無く、欠落した意識になすがままに。 鳥の囀り。 しかしその囀りも惰性的に鼓膜に響くだけだ。 蛯塚は鼓膜が破けたのかと思っていた。音がくぐもって鼓膜に届いていたからだ。 小さな子供が泣いている。 まだ幼い男の子だ。 朧気な意識で、蛯塚は冷たいコンクリートタイルに両膝をついていた。 日曜日の遊園地。 楽しげな喧騒と音楽。 行き交う人達は、まだこちらに気付いていない。うつ伏せる男と蛯塚の隣を足早に通り過ぎていく。 気が付いたら蛯塚は、必死で心を閉ざそうとしていた。 右手に握っていた拳銃が、とてつもなく重く蛯塚は感じる。色んなものがその拳銃を重くしている。蛯塚は手放したかったが、グリップを握った指はべったりとくっついて放せない。 男の子はやがて、枯れる声で嗚咽を漏らしだした。 蛯塚の目には、うつ伏せに倒れた標的の男。 うつ伏せた地面にゆっくりと広がっていく血だまり。 狂ったようにその標的に抱きつく男の子の姿。 蛯塚の手元にある銃口からは、鼻をつくような硝煙。 (違う……) 蛯塚が視線を戻すと、風船が強く揺れている。 赤い風船。 青い風船。 黄色い風船。 眩しくて蛯塚は目を細めた。 (違う……) 目を閉じても、消えない惨劇。 瞼の裏は紅くて、自身の胸の鼓動が響くだけ。何も変わらない。息苦しさが増すだけだ。 蛯塚が目を開くと、血塗れの標的に抱きつく男の子が急に顔をあげる。 血と涙で汚れた無垢な顔。 (そうじゃない……) 男の子の後ろに見える赤い風船。その紐がするりとほどける。 蛯塚は男の子の視線を感じた。痛いほど。 (そうじゃないんだ……威嚇……だったんだ……) 赤い風船はカラフルなお菓子の家を離れて、惨劇の頭上のグレーな空へ昇っていく。 蛯塚は目を背けるように、その赤い風船を目で追った。 「ひとごろし!!」 不意に男の子が叫んだ。 行き交う人達が数人、気付いてぎょっとした視線を送っている。 幼い顔で睨む顔を蛯塚は見ていた。 それは蛯塚の心臓に、とてもとても鋭く突き刺さる。 それでも蛯塚は、悪夢と現実の境目を彷徨っていた。
/88ページ

最初のコメントを投稿しよう!

38人が本棚に入れています
本棚に追加