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赤い風船。
青い風船。
黄色い風船。
蛯塚圭吾(エビヅカケイゴ)は揺れる風船をただ視線に入れていた。ぼんやりと、そこには特に感情は無く、欠落した意識になすがままに。
鳥の囀り。
しかしその囀りも惰性的に鼓膜に響くだけだ。
蛯塚は鼓膜が破けたのかと思っていた。音がくぐもって鼓膜に届いていたからだ。
小さな子供が泣いている。
まだ幼い男の子だ。
朧気な意識で、蛯塚は冷たいコンクリートタイルに両膝をついていた。
日曜日の遊園地。
楽しげな喧騒と音楽。
行き交う人達は、まだこちらに気付いていない。うつ伏せる男と蛯塚の隣を足早に通り過ぎていく。
気が付いたら蛯塚は、必死で心を閉ざそうとしていた。
右手に握っていた拳銃が、とてつもなく重く蛯塚は感じる。色んなものがその拳銃を重くしている。蛯塚は手放したかったが、グリップを握った指はべったりとくっついて放せない。
男の子はやがて、枯れる声で嗚咽を漏らしだした。
蛯塚の目には、うつ伏せに倒れた標的の男。
うつ伏せた地面にゆっくりと広がっていく血だまり。
狂ったようにその標的に抱きつく男の子の姿。
蛯塚の手元にある銃口からは、鼻をつくような硝煙。
(違う……)
蛯塚が視線を戻すと、風船が強く揺れている。
赤い風船。
青い風船。
黄色い風船。
眩しくて蛯塚は目を細めた。
(違う……)
目を閉じても、消えない惨劇。
瞼の裏は紅くて、自身の胸の鼓動が響くだけ。何も変わらない。息苦しさが増すだけだ。
蛯塚が目を開くと、血塗れの標的に抱きつく男の子が急に顔をあげる。
血と涙で汚れた無垢な顔。
(そうじゃない……)
男の子の後ろに見える赤い風船。その紐がするりとほどける。
蛯塚は男の子の視線を感じた。痛いほど。
(そうじゃないんだ……威嚇……だったんだ……)
赤い風船はカラフルなお菓子の家を離れて、惨劇の頭上のグレーな空へ昇っていく。
蛯塚は目を背けるように、その赤い風船を目で追った。
「ひとごろし!!」
不意に男の子が叫んだ。
行き交う人達が数人、気付いてぎょっとした視線を送っている。
幼い顔で睨む顔を蛯塚は見ていた。
それは蛯塚の心臓に、とてもとても鋭く突き刺さる。
それでも蛯塚は、悪夢と現実の境目を彷徨っていた。
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