貝殻

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貝殻

「彫刻刀かして」 葵(あおい)は僕の机に、はらりと腰かける。 「また忘れたのか?」 目を逸らしたまま。 「席が遠くなって不便よね」 そのわりに嬉しそうな顔をしている。 「ねっ?」 ともう一度、聞くので「まあ」と僕は答えた。 美術の時間。 葵悠子はいつも彫刻刀を忘れて僕に借りにくる。 渡してしまうと僕が使えなくなるので、彼女はとなりで貝殻を彫っている。 僕らがあまりに勉強しないので、先生に席を離されてしまったのだ。 「おまえら付き合って…ないよな?」 友だちの山崎が葵に告白するというのだ。 「ないない」 僕らは帰る電車が同じなので、いっしょになることが多いだけ。 「伝えておくよ」 それでも、男子から見れば僕が葵に近い存在であることに違いはなかった。 放課後、中庭の花壇に来るよう伝えてくれという。 「自分で言えよ」と言ったが「付き合ってないよな?」なんて返されると断れない。 「話ぐらい聞いてやってもいいだろ?」 葵は無心に貝殻を彫り続けている。 そんなに彫ると木片がなくなっちゃうよ。 「いいけど」 彼女は短く答えた。 最近、授業中に話せないのですれ違い気味だ。 チャイムが鳴って葵は机から飛び降りる。 「なんでスカートを押さえるんだ?」 と聞いたことがある。 「押さえないと、バカな子みたいでしょ」 まあ、そうかも。 数日後の帰り道。 駅のホームで彼女に会った。 向かい側には山崎がいて、手を振っている。 「なんだ、おまえも山崎のこと好きだったのか」 葵は山崎の告白をオーケーしたのだった。 「うん、同じ中学だし。むかしから」 僕らは、ひとり分の隙間をあけてベンチに座り、急行を1本見送った。 僕の家は普通列車でひと駅、彼女は急行でひと駅なのだ。 次も急行だった。 僕が黙って乗ると、葵もついてきた。 ふたり掛けの席に座ると彼女は静かに眠った。 駅についても眠ったまま。 でも、なにも言えない。 コトンと音がして床になにかが落ちた。 見ると、木彫りの貝殻だった。 というより貝殻のなれの果てという感じ。 僕はそれを拾うとカバンから彫刻刀を取り出してやわらかく削った。 葵は僕の肩に寄りかかっている。 寝息がしずかに聞こえる。 目が覚めたら怒られるかな? 「なんで起こさなかったよ!」 とは、けっきょく言われなかった。
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