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ヒュウ、と風が凪いだ。
彼女の長い、長い髪が風に踊り、夜に舞う。
それをごく自然な仕草で手で押さえながら、月を見上げている。
後ろ姿だけでは、その思うところは計れない。
今、どんな表情をして月を眺めているのか。
それは一体、どんなに美しい光景なんだろうか。
きっと、絶世の絵画に出会った時、多くの人々は僕が今感じているこの憧憬を抱くに違いない。自分には決して知ることのできないそれを、知っている誰かに抱く憧憬を。それは絵画においては作者にしか許されない権利だが、今ここで起こっている俄には信じがたい幻想的な現実において、僕はそれを知ることができる唯一の存在。
けど、ね。
僕ってそんな勇気ないし!
「なにをぶつぶつ言っているのかしら?」
「ごめんなさいぃっ!?」
こ、声裏返ったぁ!
振り返らずに放たれた彼女の言葉に、僕は「なさいぃっ!?」の辺りで完全に声が裏返るほど動揺していた。
か、顔から火が出るくらい恥ずかしい。
感動も幻想も憧憬もへったくれもぶっこわれだ。
僕のキョドった一声に、その世界はあえなく崩れ去っていった。
「……随分長く見つめられてると思ったら、」
あたふたしていると、声が急に近くなるのを感じ──
「面白い反応をするのね、あなた」
──「有り得ないスピード」で僕の目の前に現れたその女性を前に、僕は感動も憧憬も動揺も全てが戦慄に変わるのを感じた。
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