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  「遅かったな、どこほっつき歩いてた」 「すみません」  細い目の、見かけいかにも訳ありな顔をした主人は、私の濡れ鼠な様子に眉間にわずかに皺を寄せた。  この男は縦に長く薄い体だが、色が黒くて目付きが悪いため、全く貧弱に見えない。おまけに後ろでくくった長い髪に、片目を覆った黒の眼帯が、とかく一般人の恐怖心をあおる。 「なんで傘持ってるくせにそんな貧相な格好してんだ、お前」 「これは……道にあったやつ、盗んできました。それまでにかなり降られてしまって」  私の嘘に、主人は何を聞くこともなく着流しの袂に片手を突っ込んだまま、私を厨(※台所)へ促し背を向けた。  重い酒を土間にゆっくりと下ろして、私はべっとりと肌に張り付いた重い着物の裾を、袖やら何やらたくしあげ絞れるところは絞り上げていった。厨の勝手口に小さな水溜まりができる。  私がふと顔を上げると、そこにはまだ表に水を滴らせながらまっすぐに、しかしどこか所在なさげに立て掛けられている侍の傘が、夕刻の色にその茶色を混ぜようとしていた。  私の水。傘の雫。  それらがやがて細く流れ一緒になって、静かに外の土の上に落ちてゆくのを、私はぼんやりと見つめていた。  
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