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先の馬鹿のような言い訳を。私の顔を。私という人間を、どう見ているのかがわからなくて、ずっとそこに霧のように重たく蔓延る沈黙に耐えられなくて、私はゆっくりと腰を上げた。
射し込む青い光。それが伸ばす、黒い影。
すぐに触れられる距離にある存在を怖いと思いながら、しかし私の身体は逃げようとはしない。そしてそれが、心に反してではないことも私はわかる。
憐の白く、細い指がつく手は月の光が似合う。それは女であっても水仕事で大分荒れている私の手より、ずっと滑らかで美しい。
背中まで垂れた、黒い絹糸。盗み見た瞳は、切れ長の黒。
その美しい容姿が刀を振るえば、それはまるで舞のように、凛として空気を震わせるだろう。
「また、お料理をいただきに来ますよ」
ずっと黙っていた憐は、突然それだけ言って、私が顔を上げる前にあっさりと傘を携えて店を出ていった。
あっさりしすぎて、気の利いた言葉のひとつも私はかけることができなかった。その彼の最後の表情を、見ることもなく。
二階に駆け上がり外を見ると、憐の背中はまだ通りにあった。こちらを振り返ることなくどんどん小さくなっていった背中は、やがて夜の町角に消えた。
月が大きく傾いたのを見ながら、私は足早に店を去った。
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