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あの夜の一件以来、憐は店に顔を出すことはなく、私はいつも通りの生活を取り戻していた。
急にあの傘がなくなったことに主人や女将は首を傾げていたが、やがて誰かが勝手に持って帰ったのだろうということで落ち着いた。このこだわりの無さがあまりにもこの夫婦に合っていて、少し笑った。
私はその日、いつものように厨にいた。昼夜どちらも開けるうちのような店はこの辺りでは珍しく、開けていれば人はあまり途切れずにやって来る。
「日向」
女将が大汗をかきながら私を呼んだのは、そんなちょうど人が少なくなったときだった。
「今からちょっと、お塩買ってきてくれるかい」
「お塩、ですか?」
自分がこの間買いに行ったとき、半年はもつのではと思うくらい大量に入れたはずだった。そのことを伝えると、女将は言った。
「新しく漬物を漬けたいんだけど、なんだか評判のものがあってさ。少し遠いんだけど、頼むよ」
「わかりました」
聞けば、ここから片道半刻はかかりそうな場所だった。私は半ば駆け足で、急いで店を出た。
もう、申の刻に近かった。
私は、何も知らなかった。
今までのことも、これからのことも。
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