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「着物は、でも」
「あれで、よろしいのです。帰る間に着るものさえあれば良いのです」
困惑した表情で言いかけた彼女の言葉を遮ると、余計にそれは困り果てたものに変わった。
「でも、今代えのものを頼んだばかりなのです。それに、きちんと医者にあなたをみせなくては」
「申し訳ありませんが帰らなければならないのです」
「しかし」
「お医者様は、かかりつけがあります。明日、日が昇ったら必ず参ります。早く帰りたいのです」
焦る気持ちばかりが空回りしていた。女は落ち着いているのが余計に私を苛立たせる。
「後生ですから、どうか」
「……仕方ありませんね」
わざとらしくため息をつく。女はそっと立ち上がり、静かに部屋を出ていった。その足音が遠ざかるのを聞いて、私は大きく息を吐き出した。
誰かに要求を突き通すのがこれほどまでに心が疲れるなんて。もう二度とこんなことはしたくない。
先までこちらまで聞こえていたたくさんの音が静かなことに気付いて、側にあった薄い美しい紋様の布を羽織って、そっと女が出ていった向かいの障子を細く開けた。誰も通っていないのを確かめて、縁側に出る。
大きな銀色の月が見える。
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