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きみのえがお
その日の夜、風呂からあがると着信が四件。敦からだった。かけなおそうとボタンを押すと同時に、ディスプレイに敦の文字が流れた。
「あ、俺」
「ごめん風呂入ってた。どうしたの?」
「ごめんじゃねんだけど。人がせっかく電話してるのに風呂なんか入ってんなよ」
「彼女いんのに他の女に電話してくんなよ」
いつもと変わらない掛け合い。違ったのは、電話の向こうの静かすぎる空気。
「まじ聞いてよー、俺振られちゃったぁ」
明るい声に感じる違和感。
「確かめたの?」
まるで速まる鼓動を鎮めるように、左胸の前で握る左手。
「俺ねぇ、もういらないってさぁ」
詰まりそうな声の震えが、はっきりとわかった。
「なんっか……まじさ。ありえねん、だけど」
言葉が詰まる。敦に、なんて言えばいい?
「どうしよう……茜」
辛うじて聞き取れた声は、私の名前を発していた。
「俺、どうしたらいい」
声の向こうで反響する単発の高い音の中で、敦の声を拾いあげる。
「いまどこ?」
「……さくら橋」
「わかった、今から行く」
電話を切って、ブルゾンを寝間着の上から羽織り自転車を飛ばした。電話の向こうに聞こえたのは、警笛。
静かだった。
雲の合間で瞬く小さな星。冷たい風が頬を打って痛みに変わる。ぶつかってくる冷えた空気が、ブルゾンの下にまで入り込む。
マフラーを巻いてくればよかったと、小さな後悔に苦く笑う。ハンドルを握るかじかむ両手に力がはいる。寒さからか、焦りからか。
そんな、息も凍てつくんじゃないかと思うほどの、寒い夜の橋の下。敦は、ひとり座っていた。まるで自分を抱きしめるように。
「いやいや、どーもご苦労様でっす」
駆け寄る私に手を振り、笑う。
「凍え死にたいの?」
「あー、いいねそれも」
暗くてよく顔が見えない。その分、声のトーンが無理矢理な笑顔の淳を想像させる。
「ほら」
自販機で買ったレモンティをブルゾンのポケットから出して、目の前の男に投げる。彼はうまくキャッチして、喜びの声をあげる。
「お、気が利くじゃんかぁ! あったけぇ!!」
馬鹿みたいに騒ぐのはいつものこと。今はそれが、ただ痛々しい。
隣に座り、自分に買ったミルクティを取り出す。遠くに救急車の走る音がする。こんな時間に走る車の数なんてたかが知れてる。
今この静かな空気が、私と、隣で縮こまる彼の心を落ち着かせてくれる。
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