松尾山の銃撃

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松尾山の銃撃

元々関ヶ原の布陣は南宮山に毛利秀元、松尾山に小早川秀秋、藤川台に大谷吉継、北国街道に石田三成、その隣に島津義久、小西行長、天満山に宇喜田秀家、その他合わせて総勢10万、それに対し徳川は地の利を得られず桃配山に総勢8万で陣取っていた。 明治18年陸軍大学の教官として招かれたドイツのクレメンス・メッケル少佐は図上でこの関ヶ原の布陣をみて即座に『西軍の勝ち』と言ったという。 まさに三成にとって必勝の布陣であった。 この三成の陣を鶴翼の陣と呼んだ。 だが、圧倒的劣勢の状況に立たされているはずの徳川家康は取り乱す事もなく、『両翼がなければ鶴は飛べぬ。』と言ったという。 家康は戦いの数カ月前から西軍を調略していた。 つまり地の利をもって三成が戦うのに対し、家康は人の利をもって立ち向かったのだ。 一見西軍が圧倒的優性に見えるが実際の戦況は五分だったのだ。
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