開幕

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少女は馬車を見上げていた。その扉は大きく口を開けており、中からは口論するような大声が聞こえる。 声が聞こえると、少女はこれまた可愛らしく苦笑いをもらした。 「だからいいってッ、オレらは歩いて行くってば!!」 「ですがピカデリーサーカスまではもう少し先で、人も多いですし‥‥」 「だったら尚更だ。どうせシャフツベリー・アヴェニュー通りはすぐそこだろ?こんな混雑してるなら歩いて行った方が早いっての」 そう言ってドアから人が出てきた。 現れたのは青年である。 背中まで垂れた、くすんだ金色の髪を三つ編みに束ねている。 瞳は不思議な輝きを放った薄い紫(violet)。 青年は黒いチョッキを着て、手袋をはめた手に上着と鞄を掴んでいた。スラックスをはいた足はすらりと長い。 唇は桃のようにうっすらと淡いベビー・ピンク。怒鳴っていたせいか、顔立ちのいい相手の頬はやや赤く上気している。 正に相手は、紅顔の美少年と呼ぶのに相応しい容姿をしていた。 「お兄さま」 そんな青年に、少女は静かに声をかけた。呼ばれて青年は振り返る。 「なんだよ、マリス」 「八つ当たりはよくないわ。渋滞はこの方のせいではないでしょう?」 そう言ってマリスはポケットから数枚の金貨を取り出すと、それを馬車の従者に握らせた。 「御免なさいね、兄さまは少し気が短いの」 手を握って微笑む少女に、相手は慌てたように顔を真っ赤に染めた。それを見た青年は露骨に不快そうな表情をしたが、気にせず少女は今度馬の方に駆け寄った。 「あなた達も有難う。お仕事頑張ってね」 優しく、一頭の馬を撫でながら少女がそう呟くと、黒馬はそれを名残惜しむように少女に顔をすり寄せた。少女が笑う。 「ほらマリス、行くぞ」 「あ、待ってお兄さま!」 歩き出す青年を見て、急いでマリスは鞄を掴んで駆け出した。途端まるで見計らっていたかのように風が吹き、徒に少女の帽子を浚った。 「あっ」 ぱっちりとした黄金色の瞳が青空に向けられる。混じり気のない少女の、綺麗なブロンドの髪がさらりと風に揺れた。 一八八八年、八月の中旬。 惨劇の舞台は静かに、此処倫敦(ロンドン)で幕を開き始める。
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