序幕 西園寺鏡華

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  「ありがとう、ありがとう……空樹くん」  男の声はほとんど譫言(うわごと)と化してしまった。少女の頬を撫でる手もズルズルと下がっていく。慌てて手を握り直す少女だったが、もう遅かった。  僅ながらも開いていた瞼も眠るかのようにゆっくりと閉じられ、力の抜けた腕が少女にのし掛かる。肌はまだ暖かかったが、それもすぐに失われてしまうかのように儚い。 「お……おとうさま……」  覚悟はしていた。しかしそれは理解ではない。頭ではわかっていても、心が男の死を受け入れられないのだ。  止めどなく流れていた涙も今は引き、何も考えられなくなる。ベッドの傍らに置かれた日記が風に吹かれて何も書かれていないページが何枚も捲られていった。  窓際のカーテンは先ほどと変わりなく揺れ、光が部屋の中へと注がれる。しかし、少女には風が凪いで夜と化したかのように感じられた。 「おとうさま。晩御飯は何にしますか? 私、何だって作ります。おとうさまが好きな料理を作ります。ずっと“鏡華”のままでいます。だから……」  少女が男の身体を揺らして、起こそうとするが男は少女にされるがまま目を開くことはない。 「だから起きてください。おとうさま!」  少女の悲痛な叫びさえ、男にはもう届かない。少女は、何かが割れて崩れ行く音を聞いた。  
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