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「そんな小さな体で死に急ぐことはない。ここは剣を下ろさないか。悪いようにはしない」
張羨がそう言ったので、魏延は思わず舌を打って不快感をあらわにした。魏延としてはさっさと殺り合いたいのである。
しかし張羨は更に言った。
「向かってくるなら容赦は出来ん。しかしその後ろの子のことを思うなら剣を納めなさい、若者」
そう言われて、魏延は蔡仲を振り返る。彼は薄紫の唇で何か言いかけたが、しかし無理だとばかりに目を魏延に向けて黙っていた。
それだけで魏延の心をいさめるには十分すぎた。自分一人ならまだしも蔡仲を死地に連れていくことは出来ない。
「…」
魏延は剣をまたしても構えた。張羨が溜め息をつく。
「聞こえなかったようだね」
「まさか。聞こえていたさ。逃げるにも武器が必要だ。…走れ、蔡仲!!」
蔡仲がはっとして、後ろを向くと一気に走り出した。
まさかこの状況から逃げ出すとは思わなかったのだろう、張羨は一瞬驚いたかに見えた。しかし次の瞬間には軍馬を駆って追う。
張羨に構ってはいられない。魏延は適当に最初に迫ってきた周りの部下を軍馬から突き落とし、馬を奪うと、先を行く蔡仲を拾い、脱兎の如く駆けた。
「わあ、魏延馬操るの上手だな!」
「るせぇ、しっかり掴まれ!!」
そこから、どこをどう逃げたのか、五里霧中に走りながらやっと振り切ってほっと息をついた時には、二人は黒い曇天の下にいた。
なんとか蔡瑁の陣の方へは戻ってこられたようだ。相手もまだ青年の二人にさほど興味はなかったのだろう。蔡仲の名がバレていたら分からなかったが。
蔡仲は地面にへたりと座り込み、木に背中を横たえて泣きそうな顔をしながら笑った。
魏延も軍馬を降り、撫でてその走りを労った。どこにでもいるような馬だが、命の恩人、いや馬である。
しばらくは疲れと緊張の糸が切れたことで、何ひとつ口を開けなかった。しかしようやく、蔡仲が声を出した。
「どうする…?」
「…ちぇ、なんも分からなかったな…参ったね」
術者の情報は得られなかった。これでは蔡瑁を納得させることは出来ないだろう。
「言うだけ言うか。…帰るぞ、蔡仲」
「分かった。…魏延、踏みとどまってくれてありがとう」
「…気まぐれだよ」
二人横並びに歩きながら、蔡瑁の陣を目指す。近くなるにつれて周りは夜のように暗くなっていった。
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