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暴れまわるうち、退却の鐘が鳴った。それを聞いたら即逃げろと事前に言われていたので、皆我先にと走り出す。
しかし魏延は逃げなかった。蔡瑁が漏らした言葉を思い出したのだ。
「退却が一番難しい。だから魏延、おまえは攻め続けろ」
魏延は迷わず、もう一度敵集団に突っ込んでいった。ここまで付き合ってくれた、か弱い兵卒を逃がすために。
今度は兵を薙ぐように走ることはしなかった。そのかわり魏延が向かったのは、張羨のもと。
「よう」
馬に乗ってはいたものの、兵卒の格好をした魏延が張羨と向かい合う姿はかなり違和感のあるものだっただろう。
張羨は何か言いかけたようだったが、魏延は馬をとめず、一気に攻撃を仕掛けた。一合目。刀の弾き合う音が響く。
振り向いて二合目。張羨も本気で馬に鞭を入れる。馬と馬がすれ違い、またも刀が交わされる。いつの間にかそれは一騎討ちの様相を呈した。と言っても、その二人の激しい打ち合いに誰一人参加できなかっただけではあるのだが。
張羨が刀を振るった。それをかがんでかわし、馬上で魏延もまた刀を振るう。実力は互角。
魏延は笑った。嬉しくてたまらなかった。
「ははっ!」
それは魏延本人は気付かないが、獲物を見つけた捕食者のような、獰猛な獣に近い笑いだった。魏延の剣筋は鋭さを増し、狼の如く張羨を襲う。まさか初陣とは思えない獅子奮迅の立ち回りである。
しかし張羨の護衛が、君主の危機と悟ってようやく勇気を振り絞り二人の間に割って入った。魏延はたちまち十数人に囲まれ、四方から太刀を受けるはめになった。これにはさすがに耐えきれない。
もうそろそろ疲労も限界である。魏延はぱっと踵を返すと、鞭を入れ逃げだした。
「待て、逃げるか、臆病者!」
張羨の挑発が耳に届いた。それを聞くや否や、魏延は馬をとめて追い縋る張羨に目を向けた。
「勝負はお預けだ、またやろーぜ!楽しかった!」
魏延にとって、それは最高の礼の言葉のつもりであった。それだけ言い捨てると、魏延はもう振り向かなかった。何よりも蔡瑁のところへ早く帰って、勝利を分かち合いたかったからだ。
走りつつ、魏延は馬を優しくなでてやった。黒めの毛並みを持つその馬は、嬉しそうにも見えた。
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