第二章・嵐夜

9/10
前へ
/55ページ
次へ
蔡瑁のところまで戻った時には、追っ手はいなかった。薄黒の馬に揺られ、奪い取った陣に戻ると、蔡和と蔡仲の二人が真っ先に駆け付けた。 「魏延だ!魏延おかえり!」 「心配したんだぞ、戻ってこないから!」 二人は口々に魏延を囲んで労る。魏延と共に死線を越えた兵士らも彼の帰還を見て柔らかな表情で迎えた。こうも人から祝福されるのは初めての経験で、魏延はしばらくどうしたらいいのかと、どぎまぎして馬上で固まっていた。 やがて兵士たちがぱっと道を開けたので、何事かと思えば、道の先に蔡瑁がいた。魏延は馬から降りると、一応礼をして応じる。 てっきり蔡瑁もそうするだろうと思っていたら、彼は予想とは裏腹にかつかつと魏延に近付いてきた。彼は止まらずに魏延の近くまでくるといきなりその体を抱き締めた。 「蔡…瑁?」 「魏延…良かった、無事で…よくやった」 蔡瑁の温かい手に包まれ、魏延は目を丸くした。しかし悪い気はしない。 「ありがと、蔡瑁」 蔡瑁はゆっくり魏延から離れ、踵を返した。それから、兵を見渡し言った。 「我々の勝利は目前だ!今夜、張羨の陣を攻め落とし壊滅させる!一人の漏れもなく全員で出撃する、よいな!」 その言葉が、魏延への遠回しな謹慎解除だと気付いたとき、魏延はその背中に向かって思わずにやりと口端を吊り上げ、笑ってしまった。 まさに不器用すぎる親子という例えがしっくりくる二人だった。 蔡瑁の言葉通り、彼等は真夜中に出陣し張羨の陣を襲った。魏延もその一端を担う。予想とたがわず、張羨の陣はあまりに脆かった。蔡瑁は戦の主導権を握ると、一気に陣を制圧、退却する張羨を叩き潰し、投降兵と死兵の数はおびただしかった。 ただ、張羨は敵わぬと見るや即退却に全力を注いだので、張羨を討ち取ることは出来なかった。 張羨は長沙の城まで退却すると、それ以降城を堅守して決して討ってでなかった。蔡瑁はもう十分と判断し、兵とともに帰還した。 肝心の袁紹への援軍は、劉表がそこまで乗り気でなかったこともあり、これを機にうやむやになってしまった。張羨の目的が達せられたといえば、そうなのかもしれない。 なんにせよ魏延は屋敷に帰り、羌娘に迎えられ、久しぶりの安全な眠りをむさぼった。 張羨が魏延を気に入ってその素性を調べていたことは、まだ彼は知らない。
/55ページ

最初のコメントを投稿しよう!

29人が本棚に入れています
本棚に追加