クラウス・フォン・シュタウフェンベルク

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クラウス・フォン・シュタウフェンベルク Claus Graf Schenk von Stauffenberg (1907-1944) 1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の実行犯  ヴュルテンベルク大公国の名門貴族の出で、母方の血縁でグナイゼナウの曾孫にあたる。その後、ヴァイマール共和国軍の騎兵将校となった。参謀本部編成課長などを経て、北アフリカ戦線チュニジア駐屯の第10装甲師団作戦参謀となるが、その時に左目と右手、それに左手の薬指と小指を失う重傷を負い、その後国内予備軍参謀長に転じ、国内予備軍副司令官オルブリヒト大将のもとでヒトラー暗殺計画の実行者となる。 1944年7月1日付で大佐に昇進。1944年7月20日、シュタウフェンベルクは、東プロイセンで新たに編成される2個師団についてヒトラーに報告するために、東プロイセン・ラステンブルク郊外にあった総統大本営(通称、狼の巣)に到着し、持参した爆殺用の時限爆弾の入った鞄を会議室に仕掛けてヒトラーを暗殺しようとしたが、ヒトラーは奇跡的に軽傷を負っただけで助かった。 しかし、シュタウフェンベルクは暗殺成功を確信し、その日のうちにベルリンに帰着後、ほかの陸軍内の反ヒトラー派とともにクーデター計画「ワルキューレ」を発動した。しかし、ヒトラー存命とヒトラー派の巻き返しによってクーデターは失敗し、シュタウフェンベルクらは即決裁判でその日の夜遅く午前0時15分、ベルリンで銃殺された。 最後の言葉は「Es lebe unser heiliges Deutschland!」(「我が神聖なドイツよ永遠なれ!)と叫んだという。射殺を命令したフロム大将は彼らに勲章を着用したままの名誉ある埋葬を許可したが、後日シュタウフェンベルクの遺体は掘り出され勲章をはぎ取られた上焼却された。
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