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育ちの良い紳士は、この人ごみの中に、自分の財布を狙う輩が潜んでいることなど考えもしないようだった。まるで盗ってくださいと言わんばかりに、上着のポケットを膨らませて、財布が存在を主張している。
紳士の視線は、美しい連れの貴婦人に釘付けで、立派なおひげに埋もれた口もとは、でれでれに緩みきっている。シンシアにとっては都合のいい事に、今まさにすれ違う小汚い小娘など、彼の眼中には入っていない。
少しは注意しろと言ってやりたくなるような、無防備な紳士。こんな鴨が紛れ込むから、シンシアは祭が大好きだった。
よしよし、今私のものにしてあげるからね。
紳士のポケットに隠れた財布に、心の中で語りかけ、シンシアはすれ違い様にひっそりと手を伸ばす。紳士は連れの女性と楽しげに語らう最中で、財布の危機などにはこれっぽちも気づいていない。
ついにシンシアの手が財布を探り当てた、その時だった。
「まーたお前か、灰かぶりっ!」
地獄の底から響くようなだみ声と共に、腕をつかまれた。ハッとして手を引こうとしたけれど、遅い。その時にはシンシアの腕は、ぎりりと天高くねじりあげられている。
「痛ったぁああ!」
思わず悲鳴がついて出た。その声に驚いた紳士が、こちらを振り向く。彼の目の前で、ねじりあげられたシンシアの手から、ぽろりと彼の財布が落ちた。
「あーっ、私の財布!」
連れの女性を突き飛ばさんばかりの勢いで、紳士が地面に落ちた財布に飛びつく。シンシアを捕まえた太い腕の持ち主は、一向に力を緩めぬまま、鋭い眼光をシンシアにくれた。
つるつるに磨き上げられたスキンヘッドが今日も眩しい。
誰であろう、シンシアを捕らえたのは、シンシアのよく知る露店の店主だった。毎度のことながら、軍人でないのが不思議なくらいに鍛え上げられた筋肉を鎧う小花模様のエプロンが、視覚に破壊的だ。
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