文久三年【初夏】

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    「うっぐ………それで……それで貴様の気は晴れたのか?」 「はい?…晴れたなら私はこの邸には居ないでしょうね」 「ちっ……あと一発なら我慢してやる、その後は絶対許さんぞ」 「…え?」 「さっさとしろ!!貴様如きの憂さ晴らしに付き合ってやってるんだ有り難く思え!!」 野口はグッと拳を握り目を閉じた 私は全く予想だにしない野口の言葉に目を見開き体の力が抜けていくのが分かった 「……何故、何故ですか!!」 「貴様が醜い顔を晒すからだ」 「ならば放っておけばよいでしょう!!」 「出来るなら酔ったって貴様の所になど行かない!!……やめろ、そんな顔を晒すな不愉快だ…」 野口はそう言って私の頭を引き寄せた 野口の着崩した着流しは私が蹴り飛ばし更にはだけていて私の頬が胸に触れた 穏やかな鼓動が 生きた人間の体温が 触れた想いの温もりが 私を鬼から人へ戻した 「泣くくらいなら何故戻ってくる前川邸に行けば必ず誰かが何とかしてくれた筈だ」 野口は私の頭を撫でていた 「約束と…覚悟が…あります、逃げたく、ありません」 「なら泣くな鬱陶しい」 「なら優しくなさらないで下さい」 「貴様に優しくした覚えは無い、泣くのは貴様が弱いからだ」 野口は私の腰を抱き抱えると上体を起こした 私は今、目の前のこの男の腕だけで支えられている きっと腕を解かれたら私は倒れてしまう…そしてもう、起き上がれない 「野口殿は…酷い御方です」 「好かれていたら気味が悪い、私は貴様の様な女は大嫌いだ」 そう言って私をしっかりと野口は抱き締めた
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