文久三年【初夏】

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    「芹沢は今のまま収まっているような男じゃない」 言葉とは裏腹の珍しい野口のゆったりとした口調が胸に当てた頬と右耳から直接伝わり心地好く私は黙って頷いた 「貴様が一瞬でも油断すればもう二度と此処から出られない」 野口は衣擦れの音が軋む程に回した腕に力を入れた その力は余りに強く胸を締め付け僅かに息が洩れる程だった 不思議だった 何故か野口に抱かれても嫌では無かった それは透に似ていたからなのか… それとも私がこの男を受け入れ始めているのか まだよく分からない、自分がギリギリで理性を繋ぎ留め色んな感情を無視して芹沢を斬る事だけに神経を集中させているから 今夜の様に思いもよらない人間の思いもよらない感情に触れると流されそうになる だけど幾らばかりか分かっている どんなに神経を張り詰め研ぎ澄まして芹沢を斬る為なら邪魔立てを容赦無く斬り捨てるつもりでも 野口だけは絶対一緒に前川邸へと連れていくと当然の様に思っている自分がいる そして、野口が私にとても厳しい事もよく分かっている、それは理不尽なものでは無かった 野口は自分の感情に不器用ながらも真っ直ぐに貫こうとする意志があった だから、私に命を預けてまで自分に何のメリットも無いのに私が八木邸にいる事を拒んだ 「…この様な事をされたら…まるで野口殿が私を八木邸に閉じ込めている様ですね」 野口の支離滅裂な言葉と口調と行動に少し笑ってしまった
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