文久三年【秋之弐】

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    「別に…普通です」 遠い地を思い浮べているのか早阪透は塀の向こうの空を見つめる 「透君が自分を普通だと思える様にさせてくれた方はすごいね」 松原忠司は一週間に二、三度早阪透に指南をしていたが十六歳になったと聞いた時程驚いた事はない 早阪透の実力を持ってすれば副長助勤と対等まではいかなくともいい勝負は出来そうだった 「もう、いません」 「そうか、でも、透君の中にはまだいるんだねその人は」 松原忠司は四ヶ月程傍で早阪透を見てきたがはっきりと分かる 早阪透は本庄祿を今も待っているのだ 早阪透の中には当然の様に本庄祿がいて彼女が教えてきた事全てが彼の心の一番深く大切な場所で大きく息づいている 礼儀作法も完璧だ 剣に対する想いも真っ直ぐ そして、何より早阪透は無意識なまでに純粋に本庄祿を想っていた 早阪透はあまり自分の話をする様な性質の持ち主では無かった だから気付かれ難いが何度か言葉を重ねれば直ぐに分かる 本庄祿が早阪透の本質そのものなのだ 早阪透には言葉の癖があった 《そうしろって言われたから》 全てに於いてそうだ 小さな子供が親からしっかりと躾けられていてその教えが自分の唯一の守りの盾であるかのように話す 松原忠司は最初分からなかった、一体誰に教えられたのか、誰かに言われたからなど何て無責任なんだとさえ思った 別に早阪透が何を間違った訳でも無い、只、彼の行動一つ一つに、どうして?と質問をすれば必ず返答は決まっていた 彼が誰かを言わないのは未だに整理が着かず頑なになっている証拠 だから今も無意識に本庄祿を探す様に視線と意識が一瞬余所へ向くのだ
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