文久三年【冬之壱】

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    「だけど…私がこんな事を言ったらお前は本気で怒るだろうが、私は言うぞ」 本庄祿に届く様にと野口健司はそっと顔を耳元に近付ける 「もう、諦めろ…もう、いないんだよ何処にも……お前がこんなにも愛した早阪透って餓鬼は、もう……いないんだよ本庄」 野口健司は自分の一番大切な物を失った様な気がした 言ってはいけない ずっと、そう思いしまい込んだ言葉 本庄祿が自らの全てだと言った早阪透 本庄祿の頬を包む野口健司の手が濡れた 「本庄…分かれ、お前が愛した早阪透はお前がこんなに痩せてしまった事を知っているか? お前が、もう何日も食事を取っていない事を知っているか? お前が、毎日気を失うまで此処に座り続けている事を知っているか? お前の声が消えた事を知っているか? 泣き声すら上げられないお前を、此処で静かに息を引き取るお前を早阪透は知っているか!! 知らないだろう!!きっとお前が此処で死んだってあの餓鬼は全く知らずにお前の後ろを歩いて生活していくんだ…それがお前の愛した早阪透って男なのか!!」 何日か前から本庄祿は喋らなくなった 喋らないんじゃない、喋れないのだ 声を失った いつかの右目を失った時と似ていると感じていた 体が限界を迎えている 十九歳の時、それまで無理を押して来た代償に朝、目覚めると右目は何も映さなかった 特に動揺は無かった 当然の衰弱が始まっただけの事 この体が眠りに就く準備を始めただけの事 ただ、それだけ 全盲にならなかった事は運が良かったと思える程度で何の救いにもならなかった いつか、この心臓は止まる その前に、自分が生きた証を遺したかった だから、祖父の跡を継ぎ その弟子達に自分の全てを授けたかった 自分の全てを授けた時 授かった者が自分の全てになる そう、思うと ただ自分を守りたかっただけの様にも感じた でも、確かに愛はあった いとおしく思った 自分を信じてくれる弟子達を守ってやらなければならないと思った だから、このまま死んでも構わないと思えた筈だったのに 「…っ……!!……!!!!」 口を開いても声は出ず 伝えたい事があるのに 伝わらない
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