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「家茂」
それはまだ聞き慣れない女にしては少し低いが聞きやすい声だった
「…中条」
「明後日、水戸藩主徳川慶篤が登城する、お前は話をしろ」
見上げた先には白緑の着物に灰鼠の袴を履いた中条資春が居た
「今、なんと?」
「二度も同じ事を言わせるな」
「しかし、いくらなんでも急過ぎるではないか!!」
確かに、徳川家茂は徳川慶篤が来るなど全く思ってもみなかった
水戸徳川は徳川斎昭と慶篤の二代続け様に登城を禁じられている
徳川斎昭は自業自得とは言え徳川慶篤の水戸藩との不仲も井伊直弼が発端と言っても過言ではない
今更、先代達で散々拗れたものをどうしろと言うのか
「急過ぎる?当然だ!!急いでいるんだ!!寧ろ遅過ぎた位だ!!いいか、家茂…もう手遅れかもしれないんだ、私が来ても未来は何も変わらず沢山の逸材をお前は死なせるかも知れないんだ…それでもお前は水戸と会わない気か?」
中条資春は膝を着くと右腕で強く肩を掴む
「沢山の逸材?誰か、死ぬのか?」
「このままじゃ間違い無く死ぬ…会津藩も長州藩も薩摩藩も沢山の民も死ぬ……この徳川十本刀も、お前も…死んでしまうんだ…徳川幕府は消えて無くなってしまうんだよ家茂」
そんな馬鹿な話がある訳がない
徳川幕府が消える?
沢山の藩士
沢山の民
この国で最も優れていると選び抜かれた武士達
そして、自分
「中条、嘘は止せ」
「お前は一体何の為に私を此処へ閉じ込めた?」
「中条、嘘だと言ってくれ…だって、町には民がいるんだ!!皆笑っているではないか!!十本刀だって強いんだ!!我が祖が日の本より選り抜いた武士だ!!私は知ってる強いんだ!!私だって…私だって生きてる、この城で沢山の者達が働いて家族がいて…」
「家茂、それでも、皆死んでしまうんだ」
徳川家茂の瞳は涙で溢れ歪みながらも中条資春の瞳を見付けだした
その瞳はやはり温かくはなかった
真っ直ぐに徳川家茂を見つめる瞳は
ただ一人、その残酷な未来を知りながらも決して諦めない戦の前の鎮まる武士の目だった
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