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安藤信民はただ目の前に転がる徳川慶篤の首を見つめていた。
嗅いだことも無い程の濃密な血臭はむせ返る程で、気付けば自らの膝にも血飛沫は飛び、既に黒ずみ始めている。
胸から喉へ競り上がる何かを必死に堪えていると、静かな足取りで徳川家茂が紅に染まる道を進む。
「私は、諦めない…絶対にだ」
真っ赤な水溜まりの中に座り両手で徳川慶篤の首を持ち上げ、限界まで見開かれた瞳をそっと伏せる。
徳川家茂の顔や着物にも静原冠者と徳川慶篤の血飛沫が点々と散っていた。
「私は…私はそちを殺してでも遂げなければならぬ事があるのだ…民も天子も国も絶対守る」
「ならば、絶対に堕とすなよ…水戸は今、お前の手に“守られ”ている」
「…あぁ」
中条資春はすぐ傍に膝を付き徳川慶篤の首を受け取る
「家茂、もう手を離して身を清めろ…」
朝倉高峯は後ろから徳川家茂の肩に手を置くとそのまま徳川家茂の腕を掴み上げ立たせて部屋を出た。
「安藤、貴様はどうする?貴様はこの部屋で唯一中立を許される者だ」
「私は、最初から決まっていました…ずっと上様に仕えてきたのです。だからこそ…水戸が恐ろしかった、上様はお優しい…きっと謁見を許せば土足で踏み込まれる、私達だけでは御守り差し上げるだけの自信が無かったのです……だから、せめて遠ざけたかった…でも、もう守りは止めます」
安藤信民は問いかけた田村時実を見つめる。
「止める?」
「はい、止めます。私達は決して十本刀様の様に刀に長けている訳ではございません。ですが、私達にも出来る事があるはずです、民を思えばこそ、この手と脚がある限り何だって出来ます…十本刀様と思いを同じく共に戦います」
「足は引っ張るなよ」
田村時実は珍しく僅かに笑んだ。
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