元治元年【春之壱】

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    翌朝、部屋を出ると一人俯く野口さんを見付ける。 「お早うございます」 昨夜の事もあってか控え目に声を掛けると静かに野口さんは私と目を合わせてくれた。 「お早うございます」 野口さんは挨拶を返すと又俯いてしまう。 野口さんが居る場所は最近まで本庄さんが早阪君を毎朝毎晩待ち続けた場所で彼が手にしていたのは本庄さんの黒い羽織だった。 「本庄が…あんなに怒った姿を見たのは初めてでした」 何と声を掛けようか悩みあぐねいていると野口さんは小さな声で話し出した。 「えぇ……?」 突然で何の話をしているのか分からず曖昧な返事をして次を促してみる。 「私は、本庄の事を何も知らないんです…ただ越後で生まれ弟子達に囲まれ静かに暮らしていた事以外は何も…身分とか家柄とか何も知らないんです」 「…はい」 私は驚いていた、私が知っている本庄さんの情報は当然野口さんも知っていると思っていた。 「本庄は御三家とも呼ばれる水戸徳川公に対して、私なんかの為に刀を抜こうとした…私は初めて、死を考えた自分を愚かだと思いました…御三家ですよ……普通じゃない」 「……本庄さんにとって身分や家柄なんて大した物ではないんでしょうね…でも、そう思えるのはそれだけ彼女自身が大きな力を有しているからであって、それでいてその名を誰も知らなかったのは彼女自身だけでなく先代方から続く本庄家の矜恃の有り方なんでしょう…」 私は野口さんの隣に座り庭に植わった松を眺めた。 彼との面識は殆ど無いが、芹沢さんの部下では最も若く素朴でまともな人だという認識をしている。 どちらかと言えば人柄は好きな方だ。 「そうやって静かに続いていた矜恃を私なんかの為に不意にしたんです…もう、只では済まない……ずっと鎮めていたのに、きっとその力はこれから利用されるんです」 「要は、そういう事なんだと思いますよ…」
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