元冶元年【春之参】

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    知ってる。 師匠は眠れないんだ。 知らない奴がいる所で。 心を許す奴がいない所で。 どんなに酔っていても。 絶対に。 あの時、俺は師匠から10メートル近く離れていた。 健司は何処にも酌に行かず師匠に着いて回っていた。 必然的に師匠の一番近くに居たのは健司だ。 俺だって、傍に居てやりたかった。 でも、俺には俺のやらなきゃいけない事がある。 俺は健司と違う。 健司は今も幹部と同じ扱いを受けている。 当然と言えば当然。 剣の腕も学も確か。 芹沢派だったとは言え元幹部。 内部の事も情勢も理解してる。 何より絶対的な信頼を得ている。 俺みたく師匠の背中に隠されて守られているのとは訳が違う。 俺は刀を持っていない。 師匠が俺を守る為に血を浴びるなら、俺はどんな泥だって被る。 師匠の邪魔にならない様に、少しでも俺が枷になって足踏みしないで済む様に…俺はしたくもない女装や酌をして頭を下げるんだ。 これが師匠にとって何の足しにもならない事は知ってる。 俺なんかがどんなに足掻いたって師匠の生きる大き過ぎる世界を賄う事なんて一分足りとも出来ない。 俺は師匠と長く居過ぎた。 俺の知らない世界で師匠が泣いているのを何度も見てきた。 何も言わず。 何も見ず。 何もせす。 何も知らない振りをする事が、唯一師匠の為にしてやれる小さくて弱過ぎる俺に出来る事だった。 そうじゃなきゃ、師匠の優し過ぎる心を壊してしまいそうだった。 狼の群れに投げ込まれたのは小さな仔犬だった。 生き抜く為に。 道場を守る為に。 自分の後ろに在るものを守る為に。 強くなってきた師匠。 俺は知ってる。 今この瞬間だって… 新撰組を認めたって――… 人を認めちゃいないんだ。
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